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「人生を支えるのは仕事」 村上龍が語る仕事

時間という資源
について考える

 大多数の若者は無力です。社会的地位、影響力などを持っていない。例外は芸能人やプロスポーツ選手など少数です。それ以外の大多数の若者は、成功しようと思ったら長い時間をかけて知識やスキルを得なければならない。勉強やトレーニングが必要です。

 どうやって生きていくのか、つまりどのような知識とスキルで生活の糧を得ていくのか。ただし、若者は老人よりもそのために使える時間を多く持っているのです。だから若者のおもな資源は、時間です。

 ホビーという意味で趣味をとらえると、テニスや登山などのスポーツ、音楽や絵画などの芸術は除外されるかも知れません。もっともわかりやすいのは、瓶の中に帆船を作るようなやつですが、そういう趣味の世界には批判や契約や金銭のやりとりがなく、要は洗練された暇つぶしです。若者が暇つぶしに興じるのは不自然だし、戦略的に合理性がないと思います。

 趣味が悪いとか、間違っているというわけではありません。おもに時間だけを資源として持つ若者が、趣味に熱中し、多くの時間を費やすのは非合理的でリスクが大きいと思っているだけです。

仕事を選ぶのは
人生を選ぶこと

 高度成長時のなごりでしょうが、仕事というものは自分で選ぶものではなく、親や教師が勧めるエスカレーターに乗って自動的に会社や官庁、役所などに入っていくのだ、と今でも漠然と考えられているような印象があります。そういうやり方には今ではリスクが発生していて、仕事を自分で選ぶほうが合理的ではないかというのが自著『13歳のハローワーク』のテーマでした。人生を支えるのが仕事なら、仕事を選ぶことは人生を選ぶことではないかと考えたわけです。

 主婦も仕事だと定義し直すと、若い女性でも仕事について考えない人はいないでしょう。結婚すれば人生を他人に委ねることができた時代は終わったわけで、ジェンダーによる差はないと思います。

 仕事をしないで生きていくのはたいていの場合不可能です。莫大(ばくだい)な親の遺産がある人でも、仕事は金銭だけではなく充実感や達成感を与えてくれるので、何か仕事をしたほうが合理的です。じゃあどんな仕事をすればいいのか? それは私にはわかりません。一人ひとりの資質や性格が違うので他人にはわからないんです。作家って大変でしょう、とよく言われますが、僕は作家に向いているのでこんなにおいしい商売はないといつも思っています。

ニートという現象

 ニートという言葉が紹介されて、あっという間に広く流通しました。テレビはもちろん、新聞や雑誌も「マスメディア」なので、どうしても最大公約数的なイメージを言葉にしようとします。ニートもフリーターも一括りにされてしまうことが多くなるわけです。

 ニートは、学校にも行かず、トレーニングも受けず、仕事もしていない人のことで、さまざまなリスクを抱えています。しかしマスメディアはどうしてもニート全体を一括(ひとくく)りにして解決策を考えようとします。親と子が一対一でどう向かい合えばいいのか、という個別の解決策というか、マニュアルのようなものが整備されるべきだと思うのですが、それは簡単ではありません。でもニートをマスとしてとらえるやり方だけでは限界があると思います。

 私は自分の子どもに対して、この職業に就いて欲しいとか、そういうことはいっさい考えませんでした。自分も何とか生きてきたし、子どもも自分で何とかするだろうと思っていました。ただ、別に金持ちになる必要はないし、偉くなる必要もないけれど、いきいきと生きて欲しいと思っていました。嫌なことを我慢している苦しそうな子どもではなく、楽しそうな子どもを見たいということです。

 親にとっては、日本社会のニート問題をどうするか、ではなくて、我が子がどう生きていくのかが、身もふたもなく重要なはずです。

子どもは、親の
生き方を見ている

 親が日々をどう生きているか、案外子どもはしっかりと見ています。子どもにとって親は人生の重要なモデルなので、いきいきとしているか、嫌々ながら生きているか、非常に正確に見抜きます。だから、充実感とは無縁に生きている親から「好きなことを探せ」と言われても、子どもは何のことかわかりません。

 「じゃあ君はこれからどうやって生きていくつもりなの?」と若い人に聞くと、びっくりされることが多いです。そんなこと聞かれたのは初めてだ、と言う若者もいます。それほどお金は要らないから好きなことをしたい、と言う若者に、じゃあ最低どのくらいの年収があればいいの?と聞くと大抵黙ってしまいます。どうやって生きていくのか、という問いは、どうやって生活の糧を得ていくのかということですが、それが社会的に共有されていない気がします。

 私は小さい頃から、お前はサラリーマンにはなれないと言われて育ってきたので、「どうやって生きていこうか」とそれだけを考えていました。会社に就職はできない、じゃあ何で食べていけばいいのか、ということです。昔、私のような子どもは「変わり者」でしたが、今のような時代状況をサバイバルするとき、どうやって生きていこうかと個別に考えることには価値があると思います。


組織・集団の盾と
個人の盾

 最新作ですが、『盾・シールド』という絵本を出版しました。作品のヒントというか、アイデアを思いついたのは、もうあちこちで話したり書いたりしているのですが、サッカーの中田英寿選手を通してです。素顔の中田選手は、周囲に細やかに気を配って、想像力豊かだし、基本的に優しくて柔らかでピュアなハートの持ち主です。

 でも、サッカーのゲームではもちろん、何かに立ち向かうときにはとても強いものを持ち合わせています。フィジカルにも強いし、精神力も集中力も、それにイタリア語や英語といった語学力を含む高いコミュニケーションスキルもあります。人間の総体としては、とても強いわけです。

 柔らかなハートと強さはどうやって結びついているんだろうと考えているうちに、『盾・シールド』のアイデアが生まれました。柔らかなハートと強さは、相反するものではなくて、それぞれが補完し合っているのではないか、柔らかなハートを守るために、総体として強い人間になることが必要なのではないかと、そう思うようになりました。強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない、というようなニュアンスの言葉もありますが、それも同じようなことでしょう。

 中田選手は特別な存在なのではなくて、誰でも程度の差はあれ、同じように柔らかなハートを維持するためには何かでそれを守らなくてはいけないのではないか。その何かを、象徴的に「盾」と名づけました。

盾は簡単には
手に入らない

 自分の柔らかなハートのコアを守る盾、というような考え方は明治の開国以来、高度成長時まで、あまり必要とされませんでした。国や企業、それに「世間」と呼ばれる集団・組織に個人は守られて生きるという大原則のようなものが日本社会にあったからです。

 ただ、高度成長が終わって、その大原則だけでは立ち行かなくなっています。つまり、個人的な盾というものを意識せざるを得なくなっているわけです。もちろん現代でも大企業に就職した方が有利には違いありません。でもそれではどんな人材が求められるかと考えると、さまざまなスキルと知識、それに高い人間性を持つ人に需要がある。つまり良質で強い盾を持っている人がいずれにしろ有利なんです。

 『盾・シールド』を読んでいただくとわかるのですが、重要なのは、自分を守ってくれる盾は簡単には手に入らないということです。また、手に入れようと探し歩いても見つかるものでもありません。盾は、「自分はどうやって生きればいいのだろう」という問いを、頭の片隅に常に抱いている人が、いつか出合うものです。好奇心を絶やすことなく、きっと自分には何か一生懸命になれるものがあるはずだとか、いつか信頼感を共有できる友人や恋人と出会うはずだとか、そういったポジティブな気持ちを忘れずに日々を生きているときに、盾はその人の前に姿を現すのだと思います。